極低温

よく知られている理想気体のエントロピーの式は、熱力学第三法則を満たしません。

これは、熱力学が間違っているということでしょうか?

ネットを見ても混乱しているようなので、理想気体のエントロピーと熱力学第三法則について解説してみます。

理想気体のエントロピーと熱力学第三法則

理想気体のエントロピーを表す式と、熱力学第三法則の関係を簡単に見ていきましょう。

理想気体のエントロピーを表す式

熱力学から求めた理想気体のエントロピーは、通常次のように表されます(【モル数(分子数)を変数にした理想気体のエントロピーの求め方】参照)。

$${\small S=nR\log\alpha \frac{T^{c}V}{n}}$$

$${\small c=\frac{c_v}{R}}$$

(S:エントロピー、n:モル数、R:気体定数、α:物質固有の定数、T:温度、V:体積、cv:定容モル比熱、cp:低圧モル比熱)

表現の仕方が違うことはありますが、普通はこの式が使われています。

熱力学第三法則

熱力学第三法則は、どんな物質でも絶対零度でエントロピーがゼロになるというものです。

実際にはゼロにならない場合があるのですが、理屈としてはゼロです。

この法則のおかげで、化学反応のエントロピー変化が計算できるので、化学の人間にとってはありがたい法則です。

エントロピーの式と熱力学第三法則

先ほど示した理想気体のエントロピーの式にT=0を代入してみましょう。

logの中がゼロになって、Sはマイナス無限大に発散します。

明らかに熱力学第三法則に反しています。

熱力学から求めた理想気体のエントロピーが熱力学の基本法則に反するという不思議な結果です。

これは熱力学が間違っているということではないでしょうか?

熱力学第三法則を満たさない理由

この式は熱力学の教科書などでも、特に説明もなく使われています。

知っている人からすると当たり前だからかもしれませんが、初学者の人は戸惑うのではないでしょうか?

熱力学の基本法則に反する式を使って熱力学の議論を展開しているのですから。

※熱力学第三法則が出てくる前に、理想気体のエントロピーを扱う教科書もあります。

熱力学の否定にはならない

結論からいうと、これは熱力学の否定にはなりません。

「理想気体は実存しないので問題ない」と言って済ませてもいいのですが、そうしなくても説明できます。

「最初に示した理想気体のエントロピーの式は、計算を簡単にするために仮説をたてていて、その仮説は、絶対零度に近くなれば成り立たない」

これがその理由です。

理想気体と何か

理想気体とは何か確認しておきましょう。

ここでは理想気体の状態方程式 ${\small PV=nRT}$ を満たすものを理想気体と呼ぶことにします。

理想気体本来の定義です。

温度の項の求め方

話を簡単にするために、体積とモル数を一定にして温度だけ変える場合を考えてみます。

$${\small dS=\frac{1}{T}\frac{\partial S}{\partial T}dT}$$

$${\small\frac{\partial S}{\partial T}=nc_V}$$

$${\small dS=\frac{nc_V}{T}dT}$$

$${\small S=nc_V \log{T}+C}$$

さて、どこに仮説が入っているのでしょうか?

最初の式は、Sが状態量なら必ず成り立ちます。

2番目の式は、定積モル比熱の定義です。

ですから、3番目の式までは熱力学の体系から必ず成り立つはずです。

問題は、4番目の式です。

${\small nc_V}$が定数なら何の問題もありませんが、温度に依存している場合は簡単に積分できません。

${\small c_V}$が定数になるというのはどこから来たのでしょうか。

これは熱力学の体系をどう展開しても出てくることがない理論的根拠のない仮定です。

気体の比熱はかなり広い範囲でほとんど変化しないという実験結果からの仮定にすぎません。

特に、希ガスと呼ばれる、ヘリウムやネオン、アルゴンなどは、室温から数千度まで比熱がほとんど変化しません。

でも、絶対零度に近いくらいの低温では、この仮定が成り立たないのです。

比熱はどうなるべきか

もし熱力学第三法則を満たすようにするのなら、絶対零度では$c_V$がゼロにならないといけません。

熱力学は、第1、第2、第3法則を元にして展開されるものなので、「絶対零度では比熱がゼロになる」というのは、熱力学からの当然の帰結といっていいでしょう。

それを承知の上で、比熱は一定という仮定を置いて計算していただけのことです。

CVの最低値はいくらか?

Wikipediaの「理想気体」の項目では、$c_V$が温度に依存する場合を半理想気体と呼んでいます。

その半理想気体のエントロピーの式の説明を引用すると

半理想気体の CV, m が 3R/2 を下回ることはないので、半理想気体のエントロピーの形もまた、熱力学第三法則を満たさない。

と書かれています。

「半理想気体の CV, m が 3R/2 を下回ることはない」

「絶対零度では比熱がゼロになる」と言ったばかりなのに、それと矛盾しているように思えます。

何から導出した結果なのか?

「半理想気体の CV, m が 3R/2 を下回ることはない」というのは、古典統計力学からの要請です。

熱力学では「絶対零度では比熱がゼロになる」

古典統計力学では「半理想気体の CV, m が 3R/2 を下回ることはない」

同じ問題を扱っても、熱力学と古典統計力学では出てくる答えが違うのです。

熱力学と古典統計力学のどちらが正しいのか

熱力学と古典統計力学、一体どちらが正しいのでしょうか?

実際のデータを比較すれば一発でわかります。

絶対零度付近まで気体の物質は存在しないので、固体の比熱で考えてみます。

・熱力学からの計算では固体でも絶対零度で比熱がゼロになります。

・古典統計力学の計算では固体のモル比熱は3Rで温度によって変化しません。

実際の物質の比熱は、良く知られているように、ごく低温では温度が下がれば下がるほど小さくなります。

固体の低温比熱

バーロー物理化学(東京化学同人)より

絶対零度に近づくにつれて比熱はゼロに近づいていく、熱力学の方が正しかったのです。

統計力学が熱力学を再現するように作られているので、違いがあれば統計力学に不備があるのは当然のことなのですが。

このように、熱力学理論と古典統計力学が混在しているところも初学者が躓く原因かもしれません。

古典統計力学は間違っている?

古典統計力学から、結晶の比熱は充分高い温度で$3R$になるという熱力学からは導かれない結論が得られ、実際のデータにかなり近いことが確かめられました。

これは大きな成果なのですが、低温で比熱がゼロに近づくことまでは説明できませんでした。

でも、今ではその理由もよくわかっています。

量子力学を考慮すれば絶対零度で比熱がゼロという結果が簡単に出てくるのです。

量子統計力学を考慮して、やっと熱力学を再現できるようになったのです。

理想気体の比熱は温度によって変化しないという仮定

理想気体の比熱は温度によって変化しないという仮定は、何の説明もなく多くの場面で使われています。

前に理想気体の比熱を一定としたのは「気体の比熱はかなり広い範囲でほとんど変化しないという実験結果からの仮定」と説明しました。

当初はそうだったかもしれませんが、今では統計力学の結果を根拠に置いていることが多いと思います。

それなら、ごく低温では比熱が変わると考えておいた方がいいのではないでしょうか?

現在の知識で、理想気体を仮定して計算するとそういう結果になるのですから。

古典統計力学は熱力学第三法則の裏付けになった

ここまでの話とちょっと矛盾したような話をします。

「古典統計力学は熱力学第三法則の裏付けになった」という事実です。

熱力学第三法則を満たすことができない古典統計力学が、熱力学第三法則の正しさを示す根拠になったのです。

古典統計力学で計算した理想気体のエントロピー

古典統計力学を使って理想気体のエントロピーを計算すると”ザックール・テトローデ方程式”という式が得られます。

単原子理想気体のエントロピーは、

$${\small S=nR\left(\ln{\left(\frac{2\pi mkT}{h^3}\right)^{3/2}\frac{V}{nN_A}}+\frac{5}{2}\right)}$$

と表されます。

S:エントロピー、R:気体定数、m:分子の質量、k:ボルツマン定数、h:プランク定数、V:体積、NA:アボガドロ数

気体定数とボルツマン定数が同居している式で、理論家からするとクレームが来そうですが、モル数を使った熱力学の式と比較しやすいのでこの式で説明していきます。

ちなみに原子数$\small{N}$を使った式にするなら、$\small{nR=Nk_B、nN_A=N}$を代入するだけです。

この式も、T=0でマイナス無限大に発散して、熱力学第三法則は成り立ちません。

でも、この式が熱力学第三法則を支持する理由として使われました。

絶対零度でエントロピーをゼロにしていいのか

絶対零度でエントロピーがゼロになるという熱力学第三法則を最初に提唱したのは “ヴァルター・ネルンスト” という化学者です。

多くの実験データから、全ての物質のエントロピーが絶対零度で似たような値になる傾向があることから、絶対零度では全ての物質のエントロピーが同じだと主張したのです。

その後、”マックス・プランク” が絶対零度のエントロピーをゼロと置きました。

これは、少し強引な主張で、すぐに認められた訳ではありません。

少しずつ証拠が集まって徐々に認められていくのですが、その根拠のひとつが理想気体のエントロピーでした。

ザックール・テトローデ方程式の特徴

ザックール・テトローデ方程式と最初に示した熱力学的なエントロピーの式を比べるとよく似ていることがわかります。

熱力学から求めた理想気体のエントロピーをこんな形でも表現していました(【モル数(分子数)を変数にした理想気体のエントロピーの求め方】参照)。

$${\small S=n\left(R \log{\frac{\alpha’T^cV}{n}}+c_p\right)}$$

単原子理想気体の$c、c_p$を統計力学の結果を借りて3/2、5R/2と置けば、ほぼ同等の式になります。

$${\small S=nR \left(\log{\frac{\alpha’T^{3/2}V}{n}}+\frac{5}{2}\right)}$$

ただし熱力学から求めた式にはαという物質固有の数値があり、これには任意性があってエントロピーそのものを計算することはできません。

それに比べ、ザックール・テトローデ方程式は既知の数値だけで計算できます。

これが大きいのです。

ザックール・テトローデ方程式の計算値と実測値の比較

ザックール・テトローデ方程式を使うと、エントロピーの絶対値を計算できます。

また、実際の気体の熱測定の実測値を使って熱力学計算すれば、絶対零度からのエントロピー変化を求めることができます。

もし熱力学第三法則が正しければ、その値がエントロピーの絶対値になります。

これを比較して、数値が合致していれば絶対零度でエントロピーがゼロという主張の裏付けになります。

理想気体は存在しないので、できるだけ理想気体に近い物質のできるだけ絶対零度に近い温度でのエントロピーの実測値を使うのがいいでしょう。

アルゴンガスでの実験結果

ここでは、アルゴンガスの実験結果を載せておきます。

熱測定の実験値と0ケルビンでエントロピーがゼロという仮定から、1気圧、87.3ケルビン(正常沸点)のアルゴンガスのエントロピーを求めると129.1JK-1mol-1になります。

一方、ザックール・テトローデ方程式から、1気圧、87.3ケルビンのアルゴンガスのエントロピーを計算すると、129.2JK-1mol-1になります。

偶然とは思えないくらい合致しています。

このように熱力学第三法則が広く認められるのに、古典統計力学の結果が果たした役割は大きいのです。